日本の古時計/加藤時計

#20 加藤時計1
形式 八角金筋合長掛時計
年代 明治中期
製造 加藤時計製造所
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 この時計は製造初期の物と思われ、全体に程度としては普通であるが上部の金筋は良く残っている。

 振り子室のラベルは薄くて、辛うじて加藤時計製造所とローマ字が読める。

 文字盤もオリジナルの物が付いていて、少し日焼けはしているが其れが味と成っている。

 トレードマークは良くコウセイシャのマークと間違われているが、全体に少し小さめでKを比較すれば一目瞭然。

 機械を見れば直ぐに名古屋と分かるはずで、その機械は名古屋地域の形式で特徴の無いものが付いている。

 [加藤時計製造所]

 明治中期になると日清戦争の軍需景気に伴い、一般家庭にも時計の需要が拡大していた。

 この頃の外国製時計の輸入量は明治初期と比べ、10分の1程度に減少しているが逆に国産の時計製造数は、当初の製造数の20倍以上になっていた。

 しかし、それは輸入量を汚点したに過ぎず、景気拡大に伴い時計の需要は拡大の一途をたどり、生産が追いつかない状態であった。

 特に名古屋地域においては先進事業、時計製造産業にあつい視線が送られていて、新規参入を目指そうとする地元資産家が多く存在していた。

 明治27年(1894)5月、「加藤周三郎」が「加藤時計製造所」を設立、名古屋伊勢山町に新規時計製造所が誕生することになる。

 資本金、2万5千円、従業員数50名、動力蒸気機関5馬力2台、名古屋地域の時計製造工場としては大きな設備を持った工場であった。

 設立初年は製造数も多くなかったが、翌年からは生産が軌道に乗り「明治28年(1895)製造数、21,600台、従業員数100名」と製造数が拡大。

 明治29年、製造数28,800台、従業員数144名、 明治30年(1897)、製造数28,800台、従業員数128名、明治31年(1898)、製造数24,00台、従業員数125名、 明治32年(1899)、製造数27,000台、従業員数105名と順調に時計製造をこなしている。

 この製造数は、当時の名古屋地域の時計製造数からすると、林市兵衛の林時計製造会社に次ぐ製造数を誇っていて、加藤時計製造所が大手の時計製造会社であったことを現している。

 以後、製造数は2万台前後で推移、従業員数も100名程度となり安定した経営を続けてゆくことと成る。

 その後、加藤時計製造所は海外に販路を求め、支那(中国)や東南アジアに向け輸出を拡大して行くが、日露戦争後経営が思わしくなく、製造数も落ち込む事になる。

 大正時代に入り、新しいデザインの時計が要求され始めたが、加藤時計製造所は時代の要求に答えることが出来ず、益々製造数が減少する。

 大正7年(1918)、義弟の小栗信治に会社を譲渡し、加藤時計製造所は幕を閉じることになる。

 この加藤時計製造所の時計、製造数は非常に多く普通に現在見つかるはずが、何故かしら現存数が少ない時計の部類に入っているのは不思議である。

 輸出が主体であった為であろうか、それとも別の要因が有るのか不明である。

 [資料]

[トレードマーク]
明治・大正期日本登録商標より抜粋

No.15439号 明治34年3月16日

加藤周三郎(名古屋市)